鏡像段階

ラカンにその理論的出発点を与えたのは、劇場で女優Zにナイフで切りかかり、防ごうとした女優の手に重傷を負わせた、一人のパラノイア女性である。

エメは文学者になるべく、多くの書き物を書きためていた。三十歳を過ぎた頃、彼女は一時期、被害妄想にかかって、病院に入院していたことがある。そこを退院してから、彼女は自分の原稿をある出版社に送り、出版を断わられると、その出版社を訴えるべく訴状を認(したた)め、出版社の事務員につかみかかって警察の世話になる。この時は説諭のみで済んでいる。しかし彼女は女優Zと文学者P.B.とが結託して彼女のことを小説に書いているとか、Zが彼女の子供を殺そうとしているとかいった内容の妄想を発展させていた。この妄想を基にして、彼女はZに切りかかったのだった。

彼女の妄想の芽生えは、彼女が初めての子を産んですぐに亡くした時点にさかのぼれる。彼女はこのとき、姉が彼女の子供を盗んだという観念をすでに持っていた。この観念がある友人へと、そして実際に子供を産み育てるようになってからも消えないまま、次に女優Zへと、転移されていったのである。攻撃の対象となったこれらの女性像が、彼女の理想化された自己を表わしていたことは、比較的容易に見てとれよう。

右に述べた破壊行動が現実化したあと、妄想は潮が引くように消えていった。ラカンはこの症例を「自罰パラノイア」と名付けた。ここには、同性愛的な愛着が攻撃性を内に含む事実や、罪悪感のほうが犯罪に先立ち犯罪によって罪悪感が軽くなる症例についての、フロイトの観察が生かされている。エメは自らを犯罪者の位置に落とすことで、自己の理想を表わすこれらの女性たちによって罰せられ、見棄てられ、見放され、かくて初めて心の平安を得たのである。人間の根源的な攻撃性が、自と他の同一化の領域にこそ潜んでいるという事実が、ラカンにとっての動かし難い理論的出発点となる。…鏡像段階論は、そこからの必然的な発展である。
–ジャック・ラカン

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