自我、欲望

自我とは、反転した構造のうちにある鏡像であるという。主体は自分を自らの像と混同し、自分の似姿との関係の中で、写しによって同時に想像的にだましとられてしまう。

したがって主体は、自ら差し出すことに決めた自分の像のうちに疎外されているのである。しかも主体はその疎外について無知であり、こうして自我の慢性的な誤認が形成される。主体の欲望についても同様のことが言える。つまり主体は、他者の欲望の対象の中にはじめて自らの欲望を見定めることができるのであろう。

自我、主体とは日本語でいう、〈わたし〉だろうか。

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